「ファー・イーストに住む君へ」

----いわゆる,連作エッセイ? って感じでしょうか?   top   
-1- 1996年,川崎医科大学 研究ニュース 留学報告-i
-2- 1996年,川崎医科大学 研究ニュース 留学報告-ii
-3- 1996年9月 川崎医科大学附属病院 病院広報 「海外の医療事情」
-4- 1997年 冬 川崎学園便り「すずかけ」随筆
-5- 1997年 春 川崎医科大学附属病院 病院広報 「一冊の本」
-7- 1997年 夏 川崎医科大学 同窓会報 助教授就任の挨拶に代えて
-8- 1997年 秋 川崎医科大学 父兄会報 助教授就任の挨拶に代えて
-9- 1997年 秋 川崎学園便り「すずかけ」随筆
-10-(含:-6-) 1999年 初春 川崎医科大学衛生学教室 同門会誌


ファー・イーストに住む君に-7-

第6期卒業 大槻 剛巳

坂道を登っていたのは僕だった.まだ,倉敷の生活に慣れようもない生坂での,暖かさに一歩及ばない生温さで隔離されていた高校1年の夏休み(15歳の春から倉敷に馴染み出した君達も僕も,敷かれた軌道に違いはなく,郷里のたかだか何十年程の歴史の重みに反映される将来に計られるべき便宜は否定しようもないこの国の,はたしてそれが農耕民族的な村社会が紡ぎだした縁の重さか,あるいは誇るべき情の深さにも繋がるのではあろうけれど,その多湿さには,それでもその頃から逸脱への憧憬を誰もが少しは抱いてみたりはするものの,僕のようにインマチュアーなままで年齢だけを重ねてみると,実は抽出されるものは不安でしかないのだが),中学校の恩師に自作の詞曲を添削してもらいに流行のベルボトムのロンドンブーツでもカバー出来ない長い裾を降り頻る雨に濡らしながら,フレーズやモチーフを誉められる事ばかりを夢見ていた.

走るには少し遠い坂道の往復だった.陸上部の練習でその時期は連日備中国分寺へ走っていたような,しかし,それは今や記憶の断片化の再構築でしかなく(細胞の死を,それも自殺を核酸の断片化で判定するならば,既に僕の記憶も死している事になると考えるのは,あながちシニカルとは云えないであろう.記憶と過去の心象を死滅させはしても,その断片をその時々の感情と感傷のバイアスで絶えず再生し得るならば,そこに生み出されるものに足跡が活かされ,異化されていると信じたいのだから),あるいは事実は乾く喉の辛さに五重の塔が目に入れば直ちにUターンの毎日であったのかも知れないが,それでもそれは走るという語彙を人生に置き換えるような安直な教訓に生かさないまでも,いまだに陸上競技マガジンを定期購読する余裕の道標にはなってくれたのだから.

それは見た目にはほんの小さな坂でしかなかった.校舎棟の玄関前に車を停めて,友達から掻き集めた楽器と録音機材を軽音楽部の部室に運び込んでは,長期休暇の度にオリジナルテープを作成していたことも(模倣であれ利用であれ自分だけの立脚点を求めたいという気持ちは,あるいは今の方が強固になっているとしたら,君はそれを受理してくれるであろうか.あの当時,確かに神戸のヤマハの人に名前を知られたり,大会にも何回となくエントリーされたけれど,才能自体はそこまででしかなかったとするならば,抽出された不安は否応無く膨張を続けるばかりなのだ),その頃バンドの仲間と過ごした練習やコンサートへの情熱をも今やあまりにも気軽に青春と命名出来るほどに,追憶としての美しさに抱埋してしまって,それは何曲かに1曲のノンフィクションのオリジナル曲に込められた想いでさえも同様で,今や単にそれも青春と呼んでしまえば,誰もが頷く美名の中での人生の場面でしかなくなってしまうことを,未だに否定したい感情に揺らいでしまう僕がいるのだ.

穏やかに見える坂道は京都の宝ヶ池周辺か.ようやく樹立したヒト骨髄腫細胞株を報告(それでも継続することに遺伝子が微笑んでくれたのか,昨年も4株目の樹立に成功したりもして,それはそれで貴重な成果となってきているのかも知れないが,そこには単に遺伝子の意思に踊らされている自分の姿しか見えなくなってきているように感じられる時に,それさえも諦念とは考えずに,それならそれでシャルウィダンスと目の前の実験に没入することで,最近は抽出された不安をカモフラージュする術を取得しつつあることが,時に,ああ,欺瞞と偽善による虚飾としてしか自覚できないことさえもあるのだ)に学会に行った時に感じたものが不安だったか自信だったかさえ今や朦朧となるほどに,その頃は日々の診療に忙殺されて直面する症例の経過に一喜一憂していたと,いまでも僕は信じてみたい.勿論,微力な事は否めずに,良好な経過は症例の内在する力で導き出され,不幸な転帰はまさに己の拙さにしか責任を持って行きようがなく,それでも抗癌化学療法剤と輸血に振り回される嵐の中で,でも僕は頑張ってみたかったのだと.

急峻な坂道の上は何も見えない.米国のお気楽な生活をANAで一っ飛びして帰ってきた極東は,君のいたたおやかな世界ではもはやなく,珪酸化合物との邂逅で自己認識を怠ったT細胞に自分を転写することで翻訳される僕の中の変異分子には,既に細胞死を齎す能力もないままに,徒に無鉄砲にやってくる抗原を非自己と認識することに自己立脚点を見出しているばかりである.一歩,足を踏み入れてみれば無知と狡智が背中合わせで,心象情報を伝達する遺伝子群にも又,細胞死ドメインが見出され続けているとするならば,点突然変異の一つでも解析できれば,まだしも心が和むのを否定できない自らが存在している.ああ,まさに時代が0と1のディジタルな超音速で膨張と収束を繰返し,集束する先の終息でさえ予期せぬ情報を齎すことを可能にする方法論を,今や次々とこの手にしなくては太刀打ちできなくなってしまっているのだ.それでも,そう,頂上の見えない坂道がそこにあるのだとしたら,狭められた意識の方向性はもはや転換の余力もなくひたすらに登頂の暁を信じて邁進するしかないことを,去っていった君が教えてくれているのだと,曲解を承知の上で,僕は坂道を登って行きたい.